昭和45年10月20日 教祖大祭御理解



 ただ今薬院の教会長先生、杉尾先生から、いつ頂きましても有難いお話を頂きました。今日はだいたい小倉に御参拝になられますはずのところを親先生からお願いして頂きまして合楽のためにわざわざおいで頂いたんです。もうほんとにあの度々のことでございますけれども、いくら度々頂きましてもやはり有難い。ほんとに信心のお互いの血に肉になるようなお話を頂きました。
 とりわけ私は今日のお話を頂かせて頂きながら、今朝の御祈念後の御理解が、先生がお話になったようなことを私お話したんです、大体。ですからとりわけ有難いなと思わせて頂いたんですけれども、今日の私が頂きましたご理解は、御理解何節でしたでしょうか、何節でしたかね、何節でしたかね、人間はあの万物の霊長であるというとこね。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならんと仰る。
 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならないと。なるほど私どもが人間万物の霊長の、としてのおかげを頂いておりますけれども、ただ言うておるだけではおんなじ。先生がお話になりました協調ということを仰いましたですね。私どもはこのままただ信心、たとえばしよりましてもね、その同じです。ただおかげを頂いていくと言うだけでは、やはりおんなじ。
 それがその上信心がなかならば、いかに俺は万物の霊長だというても、それは同じこと。ね、私どもがやはり自分の心の上に協調させて頂くと言うかね、自分の心をいよいよ改まったうえにも改まっていくところの精進をさせて頂かなければです、私どもはおかげを受けて行かれません。私は今日これはね、あの人間でなからなければできないこと、ね、人間でなからなければできないところを私は成していくのが、私は信心だと。教祖様はそのようなことを教えておられる。他の動物ではできないこと、ね。そこを例えば実意丁寧神信心をもって貫かれる。
 しかもやはり教祖様でも、ね、たまにはお腹立ちになられるようなこともあるけれども、それをじっと御辛抱になって協調してお出でられたというお話を頂きましたですね。今日は朝の御祈念を頂きました後にね、久留米の佐田さん達が親子4人でお届をなさいました。そして今朝から先生あのこの子がこんなお夢を頂いたというんですと言うて、恵介君と申しますが、小学校二年生、もう神様からほんとにお知らせ頂くんだろうと思われるくらいにはっきりいろいろいつでもお夢を頂くんです。
 その代わりもう何年間、小学校の一年生の時から毎朝朝参りをしてくるて。御両親につんのうて。それがねどういうことかと言うとね、今日私がその人間でできることと言ったようなことを、ま、いろんな角度からお話したんですけれどもね、あの人間でなからなければできないことの中にね、お掃除ができるということは、人間だけだというてあるところ。ああそりゃ恵介君、今日は先生がここでお話をしました、し足りなかったところをあんたが頂いたっちゃねー、というてお話したことでした。
 どうでしょうか、人間でありながらね、お掃除することをようしない。ね、部屋が、お掃除どころかかえって人がお掃除をしておるところを平気で汚したり散らかしたりする。乱雑に。もうこれは万物の霊長としての値打ちなしです。私はそう思いました。もちろん心のお掃除もそうなんです。ね、牛やら馬は自分の心のお掃除をすることはできません。ね、これは人間だからできるのです。
 人間だから分からしてもらえば、はぁなるほどこのように自分の心が散らかっておる、汚れておるということが分かるから、そこへ取り組ませて頂くのですよね。小学校二年生の恵介君がそういう今朝お夢を頂いた。あら、今朝の御理解ににつながっておったなーと言うた事でした。そしたらまたお母さんがお届けされるんです。実は先生私もこのようなお夢を頂いたと言うのです。沢山の椅子がある。
 その椅子をみんな片付けてしまっておるというとこであった。そうしましたらね白扇がね、大きな白扇をこうやって開くとこを頂かれた。お夢の中で。白扇ということはお互い私どもがね、もう願ってやまないいわば親の代より子の代、子の代よりも孫の代というて、こう広がっていくことを願っているわけなんですよね。それにはいかに金光様の御信心をしておっても、その御信心がね、私は腰掛のような信心では、そういうおかげになってこないということだと私は思わして頂いた。
 これは佐田さんこのこともね、私が今日お話し得なかったことろをあなたがお夢頂いておられますな、というてお話したことでした。お互い、ね、このように広がってもしいっておらないとするならね、これはあなたの信心は、もうこりゃ教師だって信者だって同じこと、ね、広がっていっていないとするならば、それは、ね、信心が腰かけになっておるからだと私は思わにゃいけんと思うです。腰かけ信心なんですよ、いよいよ。ね、ここでいくらもああして御修行なさる方達があります。
 そん時私が一番初めに申しますことは、どこの誰だってかまわんて私は。まあここに私の信心をま、頂きたいというて修行するなら修行しても良いけれども、ほかのことは言わんけれどもね、私の信心を腰かけにするなら私はもう御免こうむるち。ね、私の信心を頂いてくださるというならば、ね、私が親先生、ね、いうなら教祖様、四神様言うならば今日小倉で御大祭があっとります小倉の初代桂松平先生のご信心が。
 その継ぎ手継ぎ手によって、だんだん頂かれてここへこう言う信心が頂けておるのでございます。だからその信心を頂きたいというてね、言うなら私を踏み継ぎにしてくださるほどしのね、なら私は喜んで皆さんの踏み継ぎにならして頂く。これはもうあなたは私ではもたない持たないものをあなたは必ず持っているんだから。私の信心を頂いて、それからあなたが、あなただけしか持たないという良い信心を育てていくというような意欲の元に修行なさるのならば、私も神様のお許しを頂こうけれど。
 もう腰掛の信心ならば御免こうむると私が。お互いがね、腰掛の信心ではいけないのであります。いいや自分なあなた十年も十五年も続けとるけん、決して腰かけじゃありませんと。ね、いやもう子供、あの親の代から続いとるからと言うたってですよ、ね、私どもは自分たちの信心が、腰かけておるのではないかと、一つ思うて見なければいけません。ならどういうようなことに腰かけておるだろうか、ね。
 信心を頂く、信心を分からして頂くということ。ね、教祖様は又の御教えの中に信心せよ、信心とはわが心が、神に向かうのを信心と言うのじゃと仰った。信心せよ、信心とはわが心が神に向こうて行くのを、信心と言うのじゃと仰った。ね、だからお互いがです、神に向こうて進んでいくほどしの信心でなからなければね、信心じゃないということ。十年信心しとるがどれほどなら神に向こうて。
 十年と信心が続いたらわれとわが心をまつれと仰せられるが、果たしてまつれられる自分で自分からの心を拝められるほどしの信心をどれだけ頂いておるか。おかげは広大なおかげを願って願って頂きました。あんときにはああいうふうにお取次ぎ頂いてこう言うおかげも頂きました。おかげがいくらに蓄積されたってそれは大したことはない。ね、頂かんよりもよかろうもん、頂くことはいいけれども、ね。
 けれどもね、私どもはわが心が神に向こうて行くという信心、言うならばおかげに腰掛けておるというならみんなこれは腰かけ信心ですから、今日佐田さんが頂かれたようなこう言うふうにはなっていかんのです、絶対。親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代、いかに三代、四代続けて信心信心させて頂いておりましてもね、ただうちは昔からこげなおかげば頂いとるけん信心しよるというおかげではね。
 それでは本当のおかげになっていかない。ね、信心とはわが心が神に向こうて行くのを信心と言うのぞと。それが子に孫にも伝えられて、そこに焦点を置き精進させて頂く信心でなからなければならない。言うならば願わんでも頼まんでもたとえばなら私どもが椛目合楽を通して二十年間の信心をさせて頂いた。もう願うということはもうほんとに申しませんでしたね、ここの人たちは。そりけんもう、お願いはしてはでけんもんのように皆さんは言うておりました。
 おかげはわが心にあるんだと、ためには本気で限りなく美しゅうならせて頂こうじゃないかと。成り行きを尊ばせて頂け、成り行きを大切にしていけ、それこそ赤づら弁慶になって腹かかんならんようなことでも、その成り行きそのものをじっと御神意だと辛抱して頂きぬいていかにゃいけんぞと。三代金光様でも、初めの間はやっぱり泣く泣く辛抱したと仰せられるのだから、その泣く泣く辛抱するところが一番大事。
 三代金光様のお言葉の中にも信心は辛抱することが一番大切でございますと仰せられるのであるから、ここを辛抱していけ、限りなく美しゅうならせて頂こう、そして、ね、お互いが日々の生活の中にです、その成行きの中に神様のお声も聞かせて頂こう、姿も見せて頂こうという、いわば、二十何年間であったと私は思います。だから私自身が願わんでもおかげを受けてきたから。
 とにかく和賀心になりさえすれば、和賀心、和賀心目指しさえすれば、おかげになると言うて参りました二十何年間。だから、願わんでもこう言うおかげを受けられる。ところが最近はそうじゃないです。願わん者は馬鹿んごとここで言われます。願う、それをただ願うと言うのではない。二十年間けいこをしてまいりましたいよいよ信心とはこれだと、ね、いよるでしょう、信心の基礎になるもの、信心の土台になるもの。
 その土台になるものを私どもは二十年間言わば一生懸命みっちりけいこをしてきたということになる。ね、そこでそういう信心を一つの基礎として、土台としてこれからの信心の一つの基調になっていかなければならない。どんなに願うても願うても、たとえばこの大天地の中にね、私どもが億万のたとえばことを願いましても、天地に比較するならばそれこそ蚊の涙にも匹敵しないほどしのことなのです。ね、
 とにかくね、限りなく持ってござる神様のものをですね、いわゆる玉水の湯川先生がそう仰ったんですね。神様の懐に手をさしこめと仰った。と言うことはそのまま願えて。願いの玉水と言うことが言われておりますがです、私どもいわば願いの合楽と言うことにこれからなっていかなければならない。私はそういうことを言い出しましてから、もうやんがて二カ月近くになりましょうが、それはですね、ほんとにすさまじいまでのおかげが現れております。癌の病人が助かる。
 めくらが目が明く、ね、何千万の借財のためにもう家を店も潰さなければと言う人がです、おかげを頂きつつある。もうそれはね、私はもう驚くばかりだと思う。いわばほんとに願わんもんが損と言うことなのだ。ね、もう、だからね、問題はその願うと言うてもね、ね、願うと言うてもただ願うと言うのではなくてですね、いうならば純真な心で願えと言うのである。
 先日ね、久留米の野口と言う方が一家中で参ってられます。そこのお孫さんが小学校の一年生と幼稚園。その幼稚園に行きよるせいこさんていうのがね、もう夕べはとても怖い夢を見たち言う。ね、それからお姉ちゃんのとし子さんが言うとる。せいこちゃんあんたが寝るときにお神様にお願いばしてねらんけんくさい、ち。お姉ちゃんなね、いつも神様にお願いをして休もうが、そりけんいつも楽しい夢ばっかりしか頂かんとよ、と言うて妹に話しておるのをそのおばあちゃんが聞かせて頂いて。
 まあ、何と素晴らしいおかげを頂いて子供達が信心の生長、お育てを頂いておることだろうかと思うて有難かったという、この頃発表しておりました。ね、子供が例えば無心に願う、痛いなら痛い、痒いなら痒い、それこそ牛馬のことに至るまで実意をもって願えと仰るのですから。私はこの場合実意と言うことは自分の心にあるその心だと思うですね。先ほど仰った実意丁寧神信心と言うその実意ではなくて、実意とは実際にある心だ、自分の心の中に。
 痛いなら痛い、痒いなら痒い、ね、お金がほしいならお金がほしい、どうにもできないならでけないということをです、実意を持って願う、願えと仰っておられるのだから願わにゃいかん。けどもそれはどこまでも純粋な心で願えというわけである。そこで純粋にならせて頂くためにやはり限りなく美しゅうならなければ、限りなく、ね、信心修行が、それこそある場合には泣く泣く辛抱しなければならないところも通らせて頂かなければならんけれども、楽しいのである。
 願う、さあ神様願え願えと仰ってくださってもです、ね、今までもうとにかく願うと言うことをもう忘れるようにして願っていなかった。ただ問題が起きてもです、その問題を通して自分自身が改まっていくこと、自分自身がいよいよ分からして頂かなければないこと、そこんところに言うならば、のみ焦点を置いておった私どもがね、願えと言われてもなんかこのへんにつまって願われんと言うて行かれる信者さんがある。あんまり急に変わったもんだから。
 次にはね、今年のここのスローガン、世のお役に立たせて下さいというのである。世のお役に立とうとか、世のお役に立ちたいというのじゃないです。世のお役に立たせて下さいという祈りなのだ。いくらお役に立ちたいと、てお役に立ちましようというたっちゃ、力もなかもんなら立てんじゃない。そんならここに一万円ばかり御用立ててくれち言うったて、持たんならどうにもできないでしょう。
 だからどうでもやはりそれが世のお役に立たせて下さいという祈りにならにゃ。世のお役に立たせて下さいという一心の祈りが、ね、願いになって来なければならない。金の上でもおかげを頂きたい、健康の上でもおかげを受けたい。それはどこまでもです、ね、世のお役に立ちたいの一心が願いになってくるというならもう絶対おかげを受けると言っています私は。癌の病人にも私は申しました。
 もう一遍このように生まれなおさせて頂いてです、もう一遍初めて聞かせて頂く天地の親神様の御恩徳を聞かせてもらい、金光大神の教えを頂かせてもろうて、その教えにより御教えによって新たな人生、それが世のお役に立つことのために助けてくださいと言うなら絶対助かるち私は言う。もうそれこそもうほんとたまがるです、おかげを受けると。それは世のお役に立ちたいの一心が願いになるならば、どのような願いでも願っていいと私は。神様はねその願いをね、待ち望んでござる。
 願ってくれ願ってくれ、願え願えと言うておられるのだということを最近感じますね。次には私は、一心の誠を捧げての願いでなからければならないと申しております。これはもう三代金光様御晩年の頃のあるお正月に御教えくださったお言葉ですよね。皆さんもまだ覚えておられましょう。一心の真、一心の真、一心の真と私どもは言うても来た、聞いてもくるけれども一心とか真とかいったいどのようなことであろうか、いよいよ私最近少しそれが分からせて頂くような気がする。
 一心の真を捧げて祈れと、なら一心の真とはどういうことなのだろうかと。一心の真を捧げて祈るということ、私これはもう必ず御神徳を頂くと思うですね。一心の真を捧げて祈るということは。一心の真を捧げて願うということは、ね、昔新田義貞と言う方がありましたですね。引き返して楠正成の軍にですか、参加するために引き返そうとしたけれども、道周りをしておったんではもう間に合わない。
 そこであの稲村ケ崎ですかね、自分の侍として一番大切なもの、刀、しかも小金つくりの太刀を竜神に捧げて祈ったという。ね、私はね、一心の真を捧げて祈る、願うということはそういうことだと思う。いうならこれはもうこれを取ったら自分の命のごたある。先ほど先生も仰っておられましたですね。ね、お酒の好きな人、ね、いろんなものが好きな、これがいっちょおかげを受けられんことが分かっておる。
 けれどもやはり人間だ、どうにもできない。それを神様におすがりしてお取次ぎを頂いてです、ね、それを神様に捧げての願いと言うことになれば、これはおかげじゃない、もう御神徳だ。御神徳の世界に入れる願いだと私は信じています。御徳を受けられたという先生方のお話を聞きますとみんなその一心の真を捧げてておあられます。一心の真を捧げての願い、そういう内容をもっての願いをですね私どもさせて頂くということは、ね、神様が喜んでくださること、ね、
 私はそういう願いに立たせて頂くというおかげを頂きたいと思うております。ね、それはね、今までは願わなかった。神様がもうもどかしい思いをなさったんじゃなかろうか。和賀心、和賀心と言うて果たしてお前が一生どのかかって、はたしてどのくらい和賀心になれるのか、改まらにゃ、磨かにゃと言いよるけれども一生かかってどれほど磨か、磨けれるのか。お前そげなこと言いよったらいよいよ願いはでけんぞと。
 なるほどそれは信心の基礎になるものではある。私どもは一生がかりでそのことには取り組んでいかなければならない。たとえば私は二十年間そのことに取り組んできた。これは信心の基礎なのだ。ね、そこをふんまえてのまた内容としての願いである。しかもその願いには、ただ今私が申しました三つの要素というものをもっての願い。そんならばどのような無理な願いでもです、神様は聞き届けてくださる。
いわゆる願い以上のおかげをくださるというのです。お互い本気で願う気になりますと、願うという信心には非常に迫力が出ます。不思議にですね、いよいよ願うことが許される。私は最近、毎月ここでは月の信心のスローガンと言うものを私が短冊のようなものに書いて渡しますと、それを企画の方で取り上げましてね、それを信者全部に配る。今年は天赦願と、今月は。神様に許されての願いと言うのである。ね、
 神様に許されての願い、ね、に私どもはね、いよいよもうおそらくは一生涯この信心に、で、徹していくことであろうとこう思います。願っても願っても頂いても頂いても、もうお前はこの頃も願うたじゃないか、この頃もやったじゃないか、と仰るようなケチな神様ではない。天地の親神様と言う方はそういう方だ。しかも金光大神の御取次ぎを頂いてのことなのだから、ね。信心せよ、信心とはわが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと言う信心。
 そういう私どもは信心。なるほどそれはなか難しい。協調したうえにも協調していかなければでけることではありませんけれども、そこを一つ泣く泣くでも辛抱しいしいにです、辛抱させて頂いておりますと、そこから生まれてくるところの信心の力と言うか光と言うか、そこからそういう改まりをまた捧げることも有難いことになってくる。どうぞ皆さんが一番大切と思うておるものを一生懸命一つ捧げてごらんなさい。お金が大切と思うておる人は、お金ば一生懸命捧げてごらんなさい。
 ですからね、もうその一番大切なものというのを捧げての願いと言うことになって参りますとね、こりゃもう大変な有難いお徳が受けられることを私は信じます。同時に私どもがおかげを頂くためには、どこまでその願いの芯とが、お役に立ちたいの一念が、願いになってくるというのです。願い、でなかったら純粋もく、それこそ子供の心のような心でね、いよいよ素直にならせて頂いて、私どもだからその三つのいつもがなからななきゃいけんて。私どもはいつもね、もう痒かったらかゆうございます、と。
 痛かったら痛いですというてすがれれる神様なのですから。そういう私どもは願いの内容。まだまだこれからその願いと言うことにつきましてもおかげを頂いて参りましたらね、もっともっと深いことがこれから分かっていくことだろうと思います。現在願いの信心に立たせて頂いてです、分からして頂いたことはまあ、その三つのようなこと。ですから一つ本気でお願いをする信心。もうお願いして、お願いしてお願いしぬかなければいけません。願わなかったらね、
 神も仏も知らんと言うようなことがありましょうが。私どもはどうでも願って願って願いぬかして頂いて、ね。いわゆるこの十五日に竣工式が、じゃないこの御造営のなんか式がございましたね。私どももそれに一つ奉賛させて頂かなければなりません。ね、それにはね、今のままでは今のまま、ね、ですからここに願いを立てなければいかん。どうでもこうでもお役に立ちたいと言う願いを立たせて頂いて、そこには思いもつかけない御用にお使い回しを頂くことを私はね、信じます。
 ここの御造営のときにそういうおかげを頂かれて、それはもうほんとにもうお金もないとにこういうことをさして頂いて、はら信者さん方がもう一生懸命苦労されたじゃろうと、けれども一人も田を売ったものもなからなければ家を倒した者もおりませんでした。御用を頂いたものは頂い程のおかげを受けておるという事実があります。真を捧げたからなのですよ。ですからどうぞその辺のところをね。ただ、我情我欲のための願いではない、もう筋道通った。
 いわゆる神様に許されての願いと、そういう願いをね。させて頂いておかげを蒙っていきたいと思います。どうぞ挨拶が長うなりました。遅うなったのに皆さん、さぞかしおなかがおすきになったことと思います。お粗末なものですけれども御直会がでけておりますから、どうぞお弁当召し上がってくださるように。それから隣接教会から御参拝を頂いております方は、そちらで別に席が取ってございますから、どうぞあちらに席をお直し頂きますようお願い申します。
   おかげ頂きましてありがとうございます。